他人のせいにすれば、そりゃ楽チンだわね。何事もさ。
2006年10月15日 少ないスペックで考えてみた コメント (4)
先日、ネット上を浮遊していて
偶然行き当たったブログがある。
末期癌で余命3ヶ月の宣告を受け
ホスピスから書込みされていたブログで、
1年以上前に御本人が亡くなられてからも
お友達が管理し、現存させていた。
生前にちゃんと
「自分が亡くなった後の管理は友達に頼んでおいた」
と記されていて、
最後の書込みは亡くなる前日のもで、
未完のまま、亡くなった翌月の月命日にアップされている。
その最後の書込みで御本人自身が
「えっ?いつ死んだの?」
「こいつ本当に癌なのか?」
と話題になってもらえれば最高だ、と
書かれていた。
そして、御本人の希望通り、
コメントらトラックバックでは
その死を悼む人達と並んで、
「フィクションだろう」
「死の前日にキーボードを打ち込めるなんておかしい」
という、疑問視するコメントも目にする。
これもある意味では「有り得る話」だと思う。
ネット世界は、その大半が
「特定されないこと」
が、自己防衛であり
そこにあるものは、虚実であったり、妄想であったり
することも多々ある。
私は、少なくとも“自分でアクセスする環境下に在る”人は
それを理解し、納得出来ている人だと思っている。
だから、素直に哀悼の意を表する人も
疑問視し、重箱の隅をつっつく人も
両方居るのが当然だと思っている。
(そのブログに関しては、後を継いだ管理人氏が
必要最小限しか出てこられていない。
私自身はとても好意的に読ませ頂いた)
だが、多数あるコメントの中で
どうしても納得のいかない言葉が幾つか在る。
「作り話なんですか? 私は本当のことだと
信じていたのに。騙されましたショックです」
おかしくないですか?
自身に何の判断基準も持たずに、人が書いたこと真に受けて
挙げ句、他の人間の書いた事を又、真に受けて
最後には騙されたって、おかしくない?
どうして判断基準が他人目線なんですか?
そのブログの筆者は、
もちろん「真実です」とも「信じなさい」とも言ってない。
第一、利害関係が在るわけじゃなし、
宗教的要素が含まれているわけでも決してない。
それを読んで、少し前の
「ホワイトバンド騒動」を思い出した。
みなさん御存知だとは思いますが
世界の貧困を無くすことを目的としたNPO団体が、
そのシンボルとして販売している、
ゴム製の白いリストバンドで、その収益は団体の
活動資金に充てられる事が目的とされているものです。
(詳しくはこちら→http://www.hottokenai.jp/)
これが話題になり、なかなか入手困難になったころ
一部購入者が、クレームを付け出しました。
「売り上げは寄付されると思ったから買った。」
「騙された、お金を返してくれ」
この団体は一言も「寄付」なんて言葉使っていません。
それどころか、公式サイトには
「活動資金に充てる」という旨が
ちゃんと明記されていました。最初から。
クレームを付けた人間は
「寄付目的だ」と自身で勝手に判断し、
世の中の流れに沿って購入したのでしょう。
だからと言って、なぜ
「話が違う。騙された」
となるのでしょうか?
自身の思い込みや、雰囲気にのまれ
確認もせずに購入したのは
自己責任以外の何ものでもないでしょう?
その判断が間違っていた時、
なぜ「他人のせい」に出来るのでしょうか?
活動資金に充てられるのが本意ではないのなら
初めから購入しなければいいだけの話です。
確認もせずにお金を払った自身には
責任はないのでしょうか?
(このケースは、マスコミの取り上げ方にも
若干の悪意が隠っていたような気がしますが)
最近、やたらこういう人間が多いなぁ〜と
思うのです。
そりゃ、「上手くいかなかったこと」
「自分の期待通りの結果にならなかったこと」
を、他人のせいに出来れば、
こんな楽な話はないですよ。
世の中、「思い通りにいく」事の方が
圧倒的に少ないですもん。
だからって、自分の判断基準を持たずに
他人のせいにして生きていくなんて
怖くないですか?
きっとこういう人が
人生の始まりを“親のせい”にし、
結婚したら「こんなはずじゃなかった」
「騙された」と“伴侶のせい”にし
挙げ句、判断基準を持たないものだから
「振り込め詐欺」なんてのに遭うんだろうな。
そこでも、自身の判断を棚に上げて
“純然たる被害者”になっているんだろうな。
(私は振り込め詐欺に関しては「振り込む人間が居る以上」
無くならない犯罪だと思っている。
中には、数回騙された人が居るそうだが、
これほど啓発活動が進んでいるのに
何度も引っ掛かってしまう人は
本格的に、医療的措置でも取らないと無理だと思っている)
私だって、人のせいにしたいコト
山盛りあります。
そんなコト、する要因もないから
日々、汗かきべそかき生きてます。
大半の方はそうだと思うんですけどね。
偶然行き当たったブログがある。
末期癌で余命3ヶ月の宣告を受け
ホスピスから書込みされていたブログで、
1年以上前に御本人が亡くなられてからも
お友達が管理し、現存させていた。
生前にちゃんと
「自分が亡くなった後の管理は友達に頼んでおいた」
と記されていて、
最後の書込みは亡くなる前日のもで、
未完のまま、亡くなった翌月の月命日にアップされている。
その最後の書込みで御本人自身が
「えっ?いつ死んだの?」
「こいつ本当に癌なのか?」
と話題になってもらえれば最高だ、と
書かれていた。
そして、御本人の希望通り、
コメントらトラックバックでは
その死を悼む人達と並んで、
「フィクションだろう」
「死の前日にキーボードを打ち込めるなんておかしい」
という、疑問視するコメントも目にする。
これもある意味では「有り得る話」だと思う。
ネット世界は、その大半が
「特定されないこと」
が、自己防衛であり
そこにあるものは、虚実であったり、妄想であったり
することも多々ある。
私は、少なくとも“自分でアクセスする環境下に在る”人は
それを理解し、納得出来ている人だと思っている。
だから、素直に哀悼の意を表する人も
疑問視し、重箱の隅をつっつく人も
両方居るのが当然だと思っている。
(そのブログに関しては、後を継いだ管理人氏が
必要最小限しか出てこられていない。
私自身はとても好意的に読ませ頂いた)
だが、多数あるコメントの中で
どうしても納得のいかない言葉が幾つか在る。
「作り話なんですか? 私は本当のことだと
信じていたのに。騙されましたショックです」
おかしくないですか?
自身に何の判断基準も持たずに、人が書いたこと真に受けて
挙げ句、他の人間の書いた事を又、真に受けて
最後には騙されたって、おかしくない?
どうして判断基準が他人目線なんですか?
そのブログの筆者は、
もちろん「真実です」とも「信じなさい」とも言ってない。
第一、利害関係が在るわけじゃなし、
宗教的要素が含まれているわけでも決してない。
それを読んで、少し前の
「ホワイトバンド騒動」を思い出した。
みなさん御存知だとは思いますが
世界の貧困を無くすことを目的としたNPO団体が、
そのシンボルとして販売している、
ゴム製の白いリストバンドで、その収益は団体の
活動資金に充てられる事が目的とされているものです。
(詳しくはこちら→http://www.hottokenai.jp/)
これが話題になり、なかなか入手困難になったころ
一部購入者が、クレームを付け出しました。
「売り上げは寄付されると思ったから買った。」
「騙された、お金を返してくれ」
この団体は一言も「寄付」なんて言葉使っていません。
それどころか、公式サイトには
「活動資金に充てる」という旨が
ちゃんと明記されていました。最初から。
クレームを付けた人間は
「寄付目的だ」と自身で勝手に判断し、
世の中の流れに沿って購入したのでしょう。
だからと言って、なぜ
「話が違う。騙された」
となるのでしょうか?
自身の思い込みや、雰囲気にのまれ
確認もせずに購入したのは
自己責任以外の何ものでもないでしょう?
その判断が間違っていた時、
なぜ「他人のせい」に出来るのでしょうか?
活動資金に充てられるのが本意ではないのなら
初めから購入しなければいいだけの話です。
確認もせずにお金を払った自身には
責任はないのでしょうか?
(このケースは、マスコミの取り上げ方にも
若干の悪意が隠っていたような気がしますが)
最近、やたらこういう人間が多いなぁ〜と
思うのです。
そりゃ、「上手くいかなかったこと」
「自分の期待通りの結果にならなかったこと」
を、他人のせいに出来れば、
こんな楽な話はないですよ。
世の中、「思い通りにいく」事の方が
圧倒的に少ないですもん。
だからって、自分の判断基準を持たずに
他人のせいにして生きていくなんて
怖くないですか?
きっとこういう人が
人生の始まりを“親のせい”にし、
結婚したら「こんなはずじゃなかった」
「騙された」と“伴侶のせい”にし
挙げ句、判断基準を持たないものだから
「振り込め詐欺」なんてのに遭うんだろうな。
そこでも、自身の判断を棚に上げて
“純然たる被害者”になっているんだろうな。
(私は振り込め詐欺に関しては「振り込む人間が居る以上」
無くならない犯罪だと思っている。
中には、数回騙された人が居るそうだが、
これほど啓発活動が進んでいるのに
何度も引っ掛かってしまう人は
本格的に、医療的措置でも取らないと無理だと思っている)
私だって、人のせいにしたいコト
山盛りあります。
そんなコト、する要因もないから
日々、汗かきべそかき生きてます。
大半の方はそうだと思うんですけどね。
コメント
人のまねばかりして,自分で判断することができない人も確かにいると思います.
でも,自分も含めて,大半の人はだまされているかどうかも実際にはわからないまま知らぬが仏で毎日を生きているんじゃないかという気もします.
だって自分の“所為”じゃないですから。
仕事上(プライベートでもかな)、結構そういう方々と遭遇してしまい悲しくなることがありますが、そういう時は単に自己防衛をしている弱い人なのだと思うようにしています。
そうすれば、なんとなく諦めがつきますからね(汗。
あっ!それと適度なアルコールがあるとストレス解消に助かります(笑。
今は自己選択、自己責任の時代ですから「他人に依存する」って自己選択をした人は、その結果も、自己責任になるのかな(笑)
自分の頭で考えるって、スゴク基本ですよね(*^-^)
極論で言えばそうなるのかな。
でも「人真似」と「判断基準を持たない」とは
決してイコールでは無いと思うのですが?
「知らぬが仏」って、怖くないですか?
「知らない」って怖くないですか?
魔美さぁ〜〜ん
そうそう、確かに「自己防衛」
でも、見当違いに他者を攻撃するから厄介。
そういえば最近、酒呑んでねぇ〜な、と思いました。
ってか、まだぐしゃぐしゃになりそうでね〜。
ゆぅ様
ありがとうございます。
そう、自分で考えるって事を手放した時の
怖さが常に在るんですよ。
しんどくても、それを手放したら「自分」じゃなくなるわけですしね。