08月24日付 朝日新聞の報道「「子猫を殺している」坂東眞砂子さんのエッセーが波紋」

「子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ」

というのが氏の信条らしい。

もう、無茶苦茶だ。

「避妊手術のほうが、殺しという厭なことに手を染めずに済む」

それ(避妊手術)は卑怯だと言いたいのか?

“産まれる前に避妊する”のと、“産まれた命を奪う”のとを
同じレベルで計るわけ?

「愛玩動物として獣を飼うこと自体が、人のわがままに
根ざした行為なのだ。獣にとっての『生』とは、
人間の干渉なく、自然のなかで生きることだ」。
人間は、避妊手術をする権利もないし、子猫を殺す権利も
ないが、「飼い主としては、自分のより納得できる道を
選択するしかない」

と持論を展開してるようだ。

アンタ、自分を『飼い主』と認めてるわけね。

氏はまた「飼っている猫」が産んだ子が「ノラ化する」のを
『社会に対する責任』から殺しているとも書いている。

ふ〜ん、自分の「飼い猫」が産んだ子は育てられないって?
飼い猫の産んだこはノラになるって?

おめぇ、最初から飼うな!!

ペットを飼うってことは、その子の最後まで
最大限の責任を持つ事だとアタシは思っている。
それにはもちろん、「産んだ子」まで含まれる。

うちにはメス猫が2匹居るが、2匹共避妊済みである。
家族会議で出した結論だ。

悩まなかったと言えば嘘になる。

子供を産ませてやりたい、とも思った。
手術のリスクも考えた。
そもそも“これが正しい選択”か?とも悩んだ。

それでも手術に踏み切った点は
*高齢になったとき、生殖器官系の病気のリスクが軽減される
*発情鳴きが続くと喉を痛めて可哀想だ。
*出産した時、その子猫達をちゃんと育ててやれる
 補償がない。

もちろん「人間のエゴ」だっていうのは自覚していた。

手術から帰って来たMOONを抱き上げた時
泣きながら謝った。

それでも、2匹目もやはり手術を選択した。
『これが飼い主としての責任』だと思ったからだ。

「手術するエゴ」「手術しないエゴ」

これは、ペットを飼う人間同士でよく
議論になることだが

『産まれた命を奪うエゴ』は
飼い主だからで済まされる範疇か?

氏の言う通り、「獣を飼う」ということ自体、人間のエゴだ。

けれど「飼う」という共存を選び「その動物が妊娠する可能性」
を残した時点で、「その動物が産んだ子」まで共存する道を
選べないなら「飼う」資格はない。

それが出来るから人間でしょう?

私はこの問題を「人間に置き換えて」とか「同じ目線で」
話す気はない。

なぜならば、我々人間が犬や猫に飼われる事がないからである。

別に「人間の方が偉い」とも思っていないし
「主従関係」が明確であると言いたいわけではない。

ただ、「ペットを飼う」のが人間である以上
「飼った生き物」を守る責任が生じるのも人間であり
そのことに知恵を絞る義務が生じるのも又人間である。

「同じ目線」で物を言っている場合ではない。
「同じ目線以上」の考慮が必要なのだ。

そして氏が、「避妊するのはエゴ」
でも「産まれちゃったら飼えない」
だから「子猫をガケに捨てちゃう」

という信条は、死生観・生命倫理・動物愛護
等の以前に、「飼い主としての自覚という名のエゴ」
に他ならない。

ってか、自分の行為に陶酔して正当化しているだけだろ。

自分を「飼い主」だと認めるのなら
「自分の飼い猫の産んだ子」がノラになるなんてバカな理屈を
恥じろ!!

「死生観に一石を投じる」気で意気揚々と書いたのだろうが
アンタのやってる事は
「飼い猫の管理がちゃんと出来ないダメ飼い主」
以外に他ならない。

「避妊するエゴ」を避けた時点で
「次に産まれた命」を守る義務が生じるんだ。
それを葬ることが「社会的責任」だなんて
自己陶酔して正当化するんじゃない!!

第一、このエッセーの書き出しが
「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている」
となっているが、

アンタ、日本に居て同じこと書けるか?

「動物にとって生きるとはなにかという姿勢から、
私の考えを表明した。人間の生、豊穣(ほうじょう)性にも
通じ、生きる意味が不明になりつつある現代社会にとって、
大きな問題だと考えているからだ」

と大きく出たもんだが、

作家として、言葉を・主張を発信する人間としての
最低限の良心とプライドに問いたい

アンタ、日本に住んでいても同じこと
言えるんだな?

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